この記事ではアドラー心理学における「課題の分離」の考え方について復習していきます。私個人の復習も兼ねているので間違いや意見等あればご指摘いただけると嬉しいです。ちなみにこの内容は『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』(岸見一郎・古賀史健著)に基づいています。
概要
課題の分離とは、人生における対人関係のタスクについてこの課題は誰の課題なのかを考えるという考え方です。タスクと課題の意味が似通っていて分かりにくいのでここは「対人関係のタスク」と「課題」と2つの言葉に区切って解釈したほうが良いと思います。
まず、対人関係のタスクについて、これは人生の中で生じる「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」と呼ばれる3つのタスクにをまとめて呼んだものです。アドラーはこのタスクを「絆」と置き換えて使うこともあるそうです。
次に課題について、これは対人関係のタスクの中で生じる課題のことです。例えば、わたしがボランティアでゴミ拾いをしていたとして周りの誰もその行動を褒めてくれなかった。ということがあったとしましょう。もしかするとわたしはゴミ拾いをしたことを誰も褒めてくれなかったことでゴミ拾いをやめてしまうかもしれません。ここで課題の分離の考え方を使います。まず、ここでのわたしの課題はゴミ拾いをするかしないかになります。そして相手の課題となる部分は褒めるという部分になります。なぜなら、相手がわたしのゴミ拾いを褒めるかどうかは相手の意志による行動だからです。そして相手の課題には踏み込まない。わたしの課題のみに視点をおく。これがこの課題は誰の課題なのかを考えるということです。
他者からの期待に応えるのか
わたしたちがこの人に認めてもらいたいと考えた時どのように行動するでしょうか。おそらくですがその人の期待に応えようと指示に従ったり喜んでもらえるようなことをしたりすると思います。いわゆる承認欲求に基づく行動です。しかし、アドラー心理学では承認欲求を否定しています。なぜなのか?わたしたちは他者の期待を満たすために生きているのではないからです。逆のことを考えてみればわかりやすいです。あなたの周りの人はあなたの期待に応えるべく生きていますか? 答えはいいえです。あなたのまわりの人があなたの期待に応えるために生きていないのであれば、あなたもまた他者の期待に応えるべく生きる必要はないのです。
それでも、他者から認められたい。そうじゃないと自分の価値が分からなくなる。と考える人もいるでしょうそう考える人のほうは多いです。
他者と自分の物差し
ここで自分の価値判断の基準について考えてみます。あなたは自分の価値をどのように図っていますか?大多数の人が他者から認められることで自分の価値を図っているでしょう。例えば、会社に属していると上司からの命令には従順に従い上司に気に入られようとする。学校だと班やグループでの決め事に関して集団の調和を乱さないようにと周囲の意見に合わせに行く。などが挙げられます。しかし、ここには自分の意志はその集団においてないのと同じです。わたしは本当はこう思っているのに嫌われるのが怖くて言い出せない。ということは経験があると思います。わたしも今まで何度も経験してきました。自分の価値を崩されるのが怖いから相手に合わせようとするわけです。つまり、自分の価値判断基準を相手の物差しで決めてもらおうとしているのです。しかし、人生から「わたし」を消してしまえばその瞬間に自分の人生ではなく他者の人生となります。そして、他者のために生きてもその他者は自分の思い通りに動いてくれるわけではない。だからこそ、自分の価値については他者の物差しに決めてもらうのではなく自分の物差しで決めるべきなのです。
他者からの承認か 承認なき自由か
親と子の関係では親が「学校はここに行きなさい」「勉強しなさい」と言い、子は不平不満は覚えつつ従うということが見られます。わたし自身も親から「勉強しなさい。勉強するまでゲーム禁止ね!」と言われ続け育ってきました。結果的に勉強が嫌いになったので親に「勉強終わった?」と聞かれても「終わった」と嘘をついてバレて怒鳴られたり、こっそりゲームをやってバレて怒られる。ということがありました。わたしは今でも勉強は好きになれないですし、なかなか続かないです。ただ、親にこうしたしつけを受けたからわたしは勉強ができないんだとは思いません。こうした考え方はフロイト的な原因論の考え方ですからね。それはそれとして親が子の人生にレールを敷いてその上を走らせるようなやり方はこうした勉強が嫌いになるというような弊害がある一方で、自分の人生を自分で決めなくて良いため楽な側面もあります。他者の言うことを聞いていれば勝手にレールが敷いてくれて不自由はあるもののその上を走るだけで良い。しかし、他者の言う事よりも自分のやりたいことを自分で決めて実行するのであれば自分でレールを敷かなければなりませんしさらに、レールを敷いた責任は全て自分に降りかかるので辛く感じます。見方によっては承認のない自由な人生を選ぶよりも他者から承認される不自由な人生のほうがよく映るかもしれません。
では、「すべての人から承認される道」と「私のことを嫌う人がいる道」の2つの道があった場合どちらの道を選んだほうが良いのでしょうか。アドラー心理学の考え方だと後者になります。なぜ「私のことを嫌う人がいる道」のほうが良いのかというとこちらの生き方のほうが自然な状態だからです。「すべての人に承認される道」というのはすべての人の期待に応えるという生き方ですから不自由以外のなにものでもありません。つまりは「私のことを嫌う人がいる道」のほうが自由な生き方を歩んでいるということになるのです。
しかし、課題の分離とは良好な対人関係を構築するためのスタート地点です。課題の分離をするだけでは良好な対人関係を築けないのです。それでは対人関係のゴールは何なのか。それは「共同体感覚」です。共同体感覚について説明しようとすると長くなってしまうのでまた別の記事にて投稿します。
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